ナチュクリを始める前、本当にもうずっと前、「社会学」にはまった。
この学問を勉強すると、辛いことや悲しいことも、それはさて置き、冷静な自分が生まれてくる。
学生時代だったので、まだまだ感情が表に立って、うまく自分をコントロールなどできないのだけれど、後になれば、どれが正しい選択だったかを常にリサーチすることができる。
その時から積み重ねたものが、ようやく今、なんとか自分で力を出せることにつながってくる。
簡単に説明できなくて、哲学でも心理学でもなく、環境学でもなければ、そのどれもを含み、今自分が立たされている状況で、単純にも複雑にも分析できるところが面白い。
自分のレベルに応じた応用が利くのだ。
個人レベルの小さな社会現象から、国を揺るがすような社会現象まで・・・人が介入して形成している「社会」で起こることはすべて社会学なのだ。
だから、メデイアや歴史の流れ、政治や経済の裏側も考え、常に、「想定内」を設けることができる。
仮に想定外のことが起こると、それはそれでまた分析の対象になるから愉快だ。
これを勉強すると、ディベートは格段にうまくなる。
あらゆる角度から物事を見る練習になるからだ。
相手の出してくる質問を想定することが大して難しくなくなるのに、半年はかからなかったように思う。ナチュクリに関して、私はいつも、必ず、「一主婦」というスタンスで語り、考えるように努力をしている。
それも、「ぐーたら」な・・・^m^
実際、ぐーたらなので、大して難しいことではないけれど・・・・・。
しかし、自分を「ぐーたら」と、客観的に分析できているのと、単に「ぐーたら」と思っているのとでは、まったく違うし、行動に差が出ることは言うまでもない。
客観的な自己認識の姿勢・・・個人における社会学ではこれが重要なのである。
あるものを好きとしよう。
なぜ好きか分かっているのと、単に好きと言うのとでは、他人に説明する時、雲泥の差がある。
更に言うなれば、「感想文」と「論文」の違いに似ていなくもない。
感想文はただ読んで、思ったことを書くだけだけれども、論文は結論を導き出さなくてはならない。
あるいは、男と女の違いにも関わってくる。
生物学的に見ても、女は比較的感情的で、理由や原因を必要としないが、男はそれを追及しようとする。
いわば、男性的な学問とも言える。
だから、その方法論を女である私はせっせと学んだのである。
単に面白かったから・・・ほらね、ここはとっても女性的!確固たる理由はなく、「面白そうだから」という自分の感情に実は素直なだけ・・・。
でも、後になって、これにはまった理由をあれこれ考えてみて、行き当たるのだけれど、このルートは鍛えないと自分の思考回路には生まれなかったものだと思う。
明らかに、この人はこの物事を可能にできると思うのにできない人がいる。
また、無理じゃないかと思っていても可能にする人もいる。
この違いは、どこから来るのか・・・・それを考えるのはとても面白い・・・・と書けば、勝手に被検体にされてる人はいい気分がしないかもしれない。
でも、マンウォッチングも社会学の楽しい一要素なのだから仕方がない。自分も含めて。
ちなみに、私は、洗濯機が回ってるのを見ながらあれやこれや形にならない思考を広げるのが好きだった。
ナチュクリをはじめるずっと以前から・・・・。
これもなぜそんなことが好きだったのかはあとで考えれば理解できる。自分だけの理由があったのだ。
あの時は、こんな生活を送る日が来るとは夢にも思わなかったけれど・・・・。
最初は私にも不可能だったナチュラルライフは、今は普通のことで、すっかり私を取り巻いて、溶け込んで、そして自然に一緒に呼吸に合わせてリズムを刻んでいる。
不可能が可能になる瞬間は、自分が動いたときだけだ。
周りが何かを変えてくれるわけではないのだ。
ナチュクリもそうだし、生活もそう。
何も考えなければ、ただの出来事で、自分が関わらないまま流れ去ってしまう。
流れがきたときにはその流れにスムーズに乗らなくてはならない。
エスカレーターのようなものだ。
私にとっての社会学はこのタイミングを教えてくれ、乗るのが上手になるように、訓練をしてくれたようなものだ。
一方重曹も、そこに置いたままでは、重曹はずっとただの重曹で、使ってこそ、パワーを思い知る。
使えば、あとは重曹が証明してくれる。
汚れに重曹を寄り添わせ、汚れを巻き込んだ重曹をその場から剥がすだけが私の仕事。
汚れを落とすのは重曹がやってくれる。
動いてみる・・・・そうすれば、その方向が正しければ必ず助けの手が借りられる。
私にとっての社会学とナチュクリはいつもpossible とimposshibleの間を行ったり来たりしながら、私を楽しませてくれる。
最近のヒットは「冬ソナ」の分析だった。
ここで語る内容ではないけれど、いくつかかなり面白い切り口で分析をしたので、友人たちには気に入ってもらえた。
いつまでも、その部分は学生のままの自分がいる。
それもまた、分析の対象なのだから面白いね。