どういうもんか・・・・私は「新人類」と呼ばれ始めた世代の生まれなのだけど、この世代の人達は、ぱっきり分かれると思う。
例えば、ネット・・・・今は色々なことをパソコンにお世話になるけれど、ことにネットは生活に「必要欠くべからざる」ものになってしまった。
未だに扱いは下手だと思うのだが、それでもなくなってしまうと、途端に何もかもが、にっちもさっちも行かなくなってしまう。
ところが、携帯でのメールくらいはするけど、頑なにPCを拒むきらいがある人も多い。
危険だとかまあ、テレビなんかでの悪影響をあれこれ言うわけだけれど、だからこそ、子供が危険なことに巻き込まれないためにも、最低限の扱いは親として知っておかないといけないんじゃないかと言うのが私の意見。
確かに、ネットは悪いところを上げればキリがないが、では、これは悪いからと言う理由で、現代社会からなくなってしまうのか・・・?
否、逆ではないかと思う。
では、この社会から消えないと言う仮定で話をした場合だが、子供はツールを扱うのに、親は扱う事が出来ないと・・・・・。
これでは、何が悪いのか、どこを気をつければ犯罪に巻き込まれないのかがまるで分からないではないか?
判断のつかない子供に判断を任せることこそが、私は怖いことだと思う。
例えば・・・・
「テレビゲームばかりやって困るのよ、お宅はどお?」
これも、実は我が家では困った事はない・・・。
私自身が、テレビゲームもやるので、「テレビゲームばっかりやってないで!」と言うと、「もうちょっと」なんて返事がよく返ってくるけど、「さっさとセーブしないと電源切っちゃうからね!ママはホントにやるよ!」と言う。
大体この言葉ひとつで、苦労して進んだゲームのデーターを消される事を恐れて、5分以内にスイッチを切る。
他のお母さんは、「セーブ(ポイント)」と言う単語さえ知らないようなのだ・・・・。
母が、ゲームに関して、大体のことを知っていると言う事は子供達には大きな抑止力となって働くようで、特別テレビゲームだからと言う事で揉めたことはない。
それを揉めると言うなら、他の遊びでも相当揉めてると言う事になる。
我が家は、家を建てるときに、実は、2階の「子供部屋」(現・家族の寝室)にすぐ、ネットがひける準備をしていた。
でも、それは使わないことにした。
リビングにずらっと機器を並べて、誰でもそこで公明正大にネットを楽しむのが我が家流。
我が家から、(意味のない)プライバシーがなくなっていく。
でも、それこそが、実は現代社会に欠けてしまい、そして足りなくなってしまったものではないのか?
そもそも、思春期と言う理由で、個室を与え、家族から隔離させることのほうが、私はご都合主義だと思う。
実は、そういう不安定な時期の子供と付き合って、こちらがうざったい気分になったり、正面から話をしてもめることを、親のほうが放棄しているのではないか?
要は、面倒くさいと言うそれだけの理由で、日本の家屋は、この「子供部屋」という密室を推奨しているのではないのか?と思う。
そこにさえ押し込めておけば、自分は平静でいられるから・・・・自分の子供に「臭いものに蓋」しているような扱いではないのか?
ふと、本屋でとった雑誌に、ある家庭(ヨーロッパ・・・記憶が定かではないが、たしか、イギリスの中流家庭のおうちだったと思うが・・・)載っていた。
何気ない間取りをちらと見ながら、決定的に違うことに気がついた。
トイレやバスルームといったものは、お国柄もあるので少し日本とは違っていたが、キッチンやリビングもあり、小学生くらいのお子さんが3人いる幸せそうなご家庭だった。
子供の寝室、親の寝室、そして書斎。
でも、日本で言う「子供部屋」がないのだ。
タイトルも「ごく普通のご家庭」というような含みのあるものだったのだが、それは私を大きく揺るがした。
お風呂やトイレは鍵がついている。
それこそがプライバシーの最たるもので、家族間でそれ以外にどんなプライバシーが要るというのだ?
我が家では子供が2人・・・以前は、勉強部屋もベッドも一部屋に押し込んで、いずれはそれぞれのPCまで、そこにセットしようとしていた。
周囲がそうだから、それが正しいと信じきっていた。
でも、よく考えると、一部屋にくつろぐ空間と、遊ぶ空間、勉強する空間が渾然一体になってること自体にかなり無理があるという事に、その時気がついた。
家の中で、それぞれが「ワンルームマンション」に住んでいるようなのだ・・・最近の日本の家は・・・・。
一部屋ですべてまかなえて、外に行く必要のない快適な空間。
まるで母親の胎内のようではないか?
こんな家が増えてき始めてからではないのか?何かがおかしくなってきたのは?
おかしくなったからこんな家に住むようになったのか?
だから、我が家では、突然、子供の成長に合わせて、その「子供部屋」という「穴蔵」から引きずり出した。
自分の足で歩けるようになった子供に「胎内」は要らない。
外の風に当たり、地面の感触を味わい、辛いことや悲しいことも知る。全部自分で消化しなくてはならないのだ。
帰って休む場所、心落ち着ける空間は必要でも、逃げ込んでいつまでも籠もっている場所はとても危うい。
人と触れ合うことを避け、自分を磨かない人間は、いつまでたっても「赤ん坊」と同じだ。
大人としての感覚が育たない。何一つも・・・・。
一体、日本にどの位、心地よく、かつ危ない空間が存在しているのだろう。
メリハリのない胎内で、人は真実を見なくなる。
自分の鼓動だけを聴きながら成長する恐ろしさを、本当に誰も気づいていないのだろうか?
ネットさえ遠ざければ、危険な人間は育たないと言うのか?
ではネットをしている私は危険な人間なのか?
そもそも、ネットに没頭するための空間が揃いすぎている、この日本の「家」そのものが危険な人間を入れておくカプセルのようではないか?
危険な人間を営々と養い育てているのだ。
お金と手間と時間をたっぷりとかけて・・・・。
足元をすくわれるような、ひやっとしたこの感覚は、私だけが感じているのか?
思春期に入る長男は、書斎で、自分の机の周りをマーキングし始めた。
色々なものを机や椅子にかけたり重ねたりして、自分のエリアを主張している。
それで十分ではないか。
あなたのエリアも私のエリアも、それは、でも、地球が私たちにほんの少しの間貸してくれているに過ぎない空間なのだ。
100年後には必ず影も形もなくなっているものだ。
家は随分スッキリしてきた。
本類はすべて書斎に集め、寝室はベッドだけ。地震にも安心だ。
余分なもののない寝室は掃除も簡単。
また、書斎は子供の机と、大人用の大きな机をひとつ・・・合計3つ置いてある。
本棚に、共用の辞書や小説、漫画や資料を並べれば何冊も同じものは要らない。
共用のものと私用のものがぱっきりと別れ、不必要なものをそぎ落とす・・・。
使っていない部屋に不必要なものを集めて、今、整理整頓中。
こんなにも、要らないものに囲まれていた悲しい私たちだった。
ものに囲まれた生活は、実は不便だったのだとやっと分かった。身をもって。
まだ、どう使うか考えなくてはならない部屋があと3つ。
あと半年かけて、この要らないものを追い出し、快適を手に入れようと思う。
ほんの少しの不便が、実は快適で、たくさんの物を使う快適さは実は不便・・・。
ナチュクリと同じ・・・そうなのだ、物の本質はいつでも同じ。
気づいてからいつも「なあんだ・・・」と思う。
「なあんだ・・・」をもっともっと見つけよう。そして、たくさんの本質の根を掘り当てよう。
そうすればもっとシンプルで扱いやすい生活になっていくに違いないのだ。
たくさんは要らない・・・欲しいものを買う生活ではなく、必要なものを買う生活にしよう。
飽食が産んだ日本の狂った構造は、小さな家の中にも潜んでいた。
あふれんばかりのガラクタに隠されていた。
そのねじれた構造を、私は決して許さない。