どこへ行ってたの、と聞かれる。
電話全然出なかったね、とも言われる。
ええ、まあ、と一瞬笑い、
「ちょっとヤマに」と答える。
山みたいなものなので。
ひとつのことにギューッと没頭する。
集中とは、拡大鏡で世界を見るみたいなものかな、と思う。
どこまで分け入ってもそこにヤマがある。星がある。宇宙がある。
この世は曼荼羅に似ている。
あるいは金太郎飴に。
チベットを訪れたとき、
町のあちこちの寺に巡礼が列をなし、
紙にも砂にも曼荼羅が描いてあった。
僧は医者を兼ねることが多く、
病の人々に祈りと薬の手当を施していた。
どうして医者は医者、宗教者は宗教者で分業しないのですか。
そう尋ねると、日に焼けたチベット医は言った。
ここは水も空気もごく薄い。
生き物に厳しいこの土地で命のともしびを守るのに、
物質と精神の力を分けている余裕はないのです。
そのときは、まるで泥縄だと思ったけれど、
今はそのチベット医の言いたかったことが、
なんとなくわかる。
命は物質と精神が分かちがたく結合したものなのだ。
両の翼で初めて羽ばたく。
物質だけでも精神だけでも支えられない。
曼荼羅は仏教的な観念図と言われるけれど、
本当にそうだろうか。
具象の中に曼荼羅があり、
曼荼羅の中に具象がある。
そういう世界に私たちは生きているのではないか。
ひゅっと現実に舞い戻り、
明日の朝食のために、
今夜のうちにオレンジを冷やしておこう、
などと考えている。
オレンジという曼荼羅を、
冷やして、しぼって、いただく。
生きている身の上のアプローチは、
いつもどうしようもなく具象だ。
でも、具象のヤマを登りきると、
次の地平が見えてくる。
そうやって進んでいけば、
案外、地図を持たなくても、
楽しくピクニックできるな、
とも思う。