しとどに雨が降る。
開けおいた窓も、
窓にかかるカーテンも、
滴々、水がしたたり落つほどに。
数年前、友人たちと、
出雲は日御碕海岸にある、
古い社を訪れたときもそうだった。
日御碕神社という。
朱塗りの柱、白い壁。
代々、小野家が千年以上神主を務める。
社までのほんのわずかな道のり、
傘などまるで役に立たぬほど、
皆のズボンも上着も濡れそぼった。
こうなったら、と、もう雨を気にしない連中が誕生する。
「なら展望台のほうにも行ってみますか」と小野さん。
黒い岩の突き立つ断崖に両手両足を付き、
這うように揃って真下の海をのぞき込む。
後ろからみたらかなり間抜けだろう。
しかしこの風、この雨、この高さ。
立って見下ろす勇気は、とてもじゃないけど出ない。
「この海底は、岩と岩の間がまるで回廊のようになっていましてね。
ダイバーの間でも有名なスポットなんです。
昔は海ではなくて、人が歩いたのではないかと言われています」
今は細く暗い水が行き来する。
何物もその場にとどまれないだろうと思われる強い流れが、
無数の渦とともに水底を洗い続ける。
少し歩いて宇竜の港。
この入り江はとてもおだやかな表情をしている。
さっきまでの風雨が信じられないほどだ。
「お探しの天然板ワカメ、ここで取れたものなら太鼓判ですよ。
私も小さいころ、よく浜辺で遊んで、おなかがすくと、
干してあるワカメをおやつに食べたものです」
旧暦一月一日、新しい年の夜が明ける前、
暗闇を割き、海中のワカメを採る。
北九州門司の和布刈(めかり)神社で行われる神事を皮切りに、
出雲、鳴門、伊勢、隠岐、塩釜と、
海藻を供える儀式が列島を北上する。
藻食民族といわれる日本人の、
食の奥底に隠された滋味はこんなところにある。
「最近は天然もののワカメを採る人がみんな高齢で、
跡を継ぐ人がいませんので…いつまで食べられるか」
この岬に、
ワカメはいつもある。
採る人が絶えようと絶えまいと、
自然には関係ない。
“天然”ワカメはゆらゆら、
繁茂し続けるだろう。
しかしこの厳しく美しい海に長く人が結んできた、
かわいらしい縁を失いたくないのだ。
その年、陸上の何の草よりも、
最初に新芽を出す海中の草を取り、
土地の神に捧げる。
幼子のような、素直な行為ではないか。
春の野に初めて咲いた花を、
うれしくて、すぐに母の元に運ぶような。
コンナノアッタヨ、
春ガキタヨ。
そのまっすぐな心根を愛する。
古くから日本に伝わる素朴な伝統行事が、
これからも記憶ではなく、
日常に連なる現実として残り続けるように、
なにかできないかと思う。
いつか人が通っていた道も、
海に占められるときが来る。
今歩けるときに、今出会える人と、
その回廊が失われても消えることのない、
しなやかな鋼のようなえにしを、
鍛え上げたいと痛切に思う。
ある種のネオテニー(幼形成熟)が、
困難から人を救う。
神に愛されし幼子であることを、
知らず具現化しているこれらワカメ採りの伝統を、
不思議な驚きで見守っている。