4月21日(金)ゼンキョートー世代考

いわゆる学生運動というものを知らずに育ったので、
その時代をくぐった人たちの思いを理解していない。

にもかかわらず、
このところその世代の人たちと話をする機会が多いので、
大人になって彼らが何を道しるべとして生きてきたか、
必要にかられて観察し、少しずつ考えている。

世の中に我らの革命をもたらさん。
国会議事堂に押し寄せ、火炎瓶を投げた。
今は、二人の息子と一人の娘の善きパパだ。

全ての斗う同志に告ぐ。
傍らにヘルメットを置き、サラサラと檄文をしたためた人は、
今、書斎で一人パソコンに向かい、随筆をしたためている。

まいったなあ。
壊す祭りだ。
そのあとの焼け野原には、
誰もがたった一人で立ったんだ。

再び他人との共通言語を見つけるのは大変だったろう。
家族とか、お金とか、昔から万人に共通の言葉は別として。

今も大して共通言語なんかないよ。
そう言い切るおじさまもいる。

まあ、そう言わないで。
私的事象に隠遁する心に橋を架けて、
お出ましいただくにはどうすればいいだろう。

岩戸に隠ったどこかのカミサマみたいに。
楽しいこと、うれしいことが、
自ら扉を開けるきっかけになればいいけど。

今度は、力ずくでは引っ張り出さない。
力は本当の正義ではないと知る人たちだけに。

ところで、実は、
世代ということを考えるとき、
もうひとつの意味でも、まいっている。

こうやって、
下の世代から観察されてるんだ、
我々もきっと。

私たちは、どう見えるだろう。
誇れる橋になれればいいけれど。