いわゆる学生運動というものを知らずに育ったので、
その時代をくぐった人たちの思いを理解していない。
にもかかわらず、
このところその世代の人たちと話をする機会が多いので、
大人になって彼らが何を道しるべとして生きてきたか、
必要にかられて観察し、少しずつ考えている。
世の中に我らの革命をもたらさん。
国会議事堂に押し寄せ、火炎瓶を投げた。
今は、二人の息子と一人の娘の善きパパだ。
全ての斗う同志に告ぐ。
傍らにヘルメットを置き、サラサラと檄文をしたためた人は、
今、書斎で一人パソコンに向かい、随筆をしたためている。
まいったなあ。
壊す祭りだ。
そのあとの焼け野原には、
誰もがたった一人で立ったんだ。
再び他人との共通言語を見つけるのは大変だったろう。
家族とか、お金とか、昔から万人に共通の言葉は別として。
今も大して共通言語なんかないよ。
そう言い切るおじさまもいる。
まあ、そう言わないで。
私的事象に隠遁する心に橋を架けて、
お出ましいただくにはどうすればいいだろう。
岩戸に隠ったどこかのカミサマみたいに。
楽しいこと、うれしいことが、
自ら扉を開けるきっかけになればいいけど。
今度は、力ずくでは引っ張り出さない。
力は本当の正義ではないと知る人たちだけに。
ところで、実は、
世代ということを考えるとき、
もうひとつの意味でも、まいっている。
こうやって、
下の世代から観察されてるんだ、
我々もきっと。
私たちは、どう見えるだろう。
誇れる橋になれればいいけれど。