ウソとホントの見分け方は、
複数のそれに関わる人間から、
その事象について一致した証言が取れるかどうかだという。
真実とは何か、どうやってそれを真実と知るか、
ということを考えていて、
第三者は真実そのものに触れない以上、
他人からのアウトプットを突き合わせるしかないのだ、
ということに気づく。
それならば、関わった人々は皆死んでしまった、
過去の歴史上の真実についてはどうなのだろう。
夜は、明日から中東を旅する人を囲んで、
壮行会という名のおでんパーティー。
アルジャジーラのニュースルーム見学に始まり、
モスクや美しい廟もたくさん見て回るという。
中東の治安から思想まで、
がんもどきやちくわぶをつつきながら、
話は踊る。ベリーダンスほどに。
イブン・スィーナーの時代、かつては医学も哲学も科学も、
世界の知性の中心はイスラーム文明にあった。
そこからヨーロッパに手渡された知恵は数知れず。
ふと思った。
歴史の中の真実は、それがどこであれ、
川底の石のように静かに横たわっており、
遠く離れた下流で、上流の水底を見透すことは、
残念だが不可能なのかもしれない。
ただひとつだけ、言えるとすれば、
真実の石のたくさん横たわる川を流れ下るならば、
その水はきっと豊かで清らかな流れを作るだろう。
下流の生き物をいくらでも元気に養いうるほどに。
精神的な環境という意味でも、
実際の物質循環という意味でも、
過去の、死んでしまった人間たちと、
現在の歴史を生きている人間たちは、
結果として見える現象、すなわち水を通じて、
つながっているのだと思った。
あちらには、ホントのところ、
どんな“水”が流れているか、
いっぱい見てきて教えてくださいねと、
旅立つ人にお願いする。
夜半より雨が降り出している。
この水は、かつて誰かの体の中を通過した水。
今、この者の中を流れる水。
とどまるところを知らず、天地人、ぐるぐる巡り、
次の命へと受け継がれていく。
雨の音を聞きながら、
今飲んでるカモミールティーが、
大河に見えてきました。