4月18日(火)心の骨

ここ数日、東京を回遊し、
今夜の長距離バスで家に帰るという、
遠来の友Mちゃんを囲んで、
酒豪K女史と三人で晩ご飯。

K女史の愛猫の話になる。
とびきりハンサムなうえ、なんと、一緒に散歩してくれる猫なのだ。
綱もないのに、それはそれは感動でした、とMちゃん。
そんなふうだから、外に遊びに出ていても、
呼べば一目散にやってくる。家に帰ってくる。
本当の家族なのだ。

そういうふうに育てたもの、とK女史がいう。
少し心当たりがあり、どんなふうに育てたの、と訊く。

一番大切なことは、しばらないこと。
綱をつけずに育てること。

それから、少し大きくなっていろんなものに興味を示し始めたら、
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、遊びに夢中になる。
それをじっと見ていて、一瞬、対象から関心が切れたとき、
見逃さないで声をかけ、注意をひく。その繰り返し。

小さい頃からそうやって育てると、
つながなくても、そばを歩いて、
人と一緒に散歩してくれるようになるよ。
とK女史。今まで幾度となく、
犬や猫をそのように育てた。
優しく、はっきりした自信に満ちている。

ああ、同じだ、と私もK女史に話す。
今、実家にいるおばあさん犬がそう。
生まれてずっと、いっさいつながれずに育った。
だから引き綱を見ると、進んで首を差し出してくれる。

彼女にとって引き綱は、
「散歩行こう!」の印であって、
束縛の道具ではない。
むしろ飼い主との絆を意味するかもしれない。

ドッグランで放したあと、帰るよ、と綱を見せると、
出口近くにお座りして待っている。
つかまえるのに大騒ぎ、なんて一度もない。
他の犬の飼い主は目を丸くする。

やっぱり、しばらないことなのね、と、
女三人、三様にしみじみとする。

私たちは、しばられて育ったろうか。
今、誰か何かをしばっているだろうか。
この先、何かにしばられ、何かをしばるだろうか。
それを避けるには、どうしたらいいだろうか。

自由というのはよりどころのないものです。
ふいに、詩人の言葉を思い出す。
自由詩を組み立てるに際し。

創造は、縛りがあるほうが、一見、最初の形を取りやすい。
外形の縛りがなければ、内なる秩序を建てねばならず、
内なる秩序は、よほど厳しく積み上げた背骨に支えられねば、
そこに肉付けした詩篇もろとも自らを崩壊に追い込んでしまう。

あるいはまた、昨日の昆虫を思い出す。
がんじがらめの外骨格の縛りが、構造と機能の限界を決定する。
その状態で環境に適応するのではなく、
生き方のシステムを変えて進化したければ、
節足動物としてのロジックを捨てなくてはならない。

しばらないってむずかしいですね。
Mちゃんがつぶやく。

そうね。とりあえずしばっちゃえば、
いたずらも脱走もされず、
その一瞬は楽なのに、そうしないで、
その子の内側に何か、一生、芯になるようなものが、
ゆっくり芽生えてくるのを一緒に待つってことだもんね。

体の中に骨格があることを、内骨格という。
魚類から霊長類まで、さまざまな生物がいる。
内骨格の生き物は、傷ついたら血を流し、
身を守る丈夫な鎧を持たないけれど、
いかようにも動き、形をとれる体躯を持つ。
知性を持つほどに脳を大きくすることも、自由にできる。

心が内骨格。
そんなフレーズが頭の中に浮かぶ。

当たり前だけど、
あの子たちの心は、
大きくて、やわらかくて、自由で、
内なる秩序、骨格があるんだ。

しばられずに育った、K女史の猫とわが家の犬。

心を内骨格に育てる、なんて妙な話、
その後はしなかったけど、
そっと温めながら帰った。

今も、私の心の中の骨(があるとして!)に、
しっかりとひっかかっている。