ここ数日、東京を回遊し、
今夜の長距離バスで家に帰るという、
遠来の友Mちゃんを囲んで、
酒豪K女史と三人で晩ご飯。
K女史の愛猫の話になる。
とびきりハンサムなうえ、なんと、一緒に散歩してくれる猫なのだ。
綱もないのに、それはそれは感動でした、とMちゃん。
そんなふうだから、外に遊びに出ていても、
呼べば一目散にやってくる。家に帰ってくる。
本当の家族なのだ。
そういうふうに育てたもの、とK女史がいう。
少し心当たりがあり、どんなふうに育てたの、と訊く。
一番大切なことは、しばらないこと。
綱をつけずに育てること。
それから、少し大きくなっていろんなものに興味を示し始めたら、
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、遊びに夢中になる。
それをじっと見ていて、一瞬、対象から関心が切れたとき、
見逃さないで声をかけ、注意をひく。その繰り返し。
小さい頃からそうやって育てると、
つながなくても、そばを歩いて、
人と一緒に散歩してくれるようになるよ。
とK女史。今まで幾度となく、
犬や猫をそのように育てた。
優しく、はっきりした自信に満ちている。
ああ、同じだ、と私もK女史に話す。
今、実家にいるおばあさん犬がそう。
生まれてずっと、いっさいつながれずに育った。
だから引き綱を見ると、進んで首を差し出してくれる。
彼女にとって引き綱は、
「散歩行こう!」の印であって、
束縛の道具ではない。
むしろ飼い主との絆を意味するかもしれない。
ドッグランで放したあと、帰るよ、と綱を見せると、
出口近くにお座りして待っている。
つかまえるのに大騒ぎ、なんて一度もない。
他の犬の飼い主は目を丸くする。
やっぱり、しばらないことなのね、と、
女三人、三様にしみじみとする。
私たちは、しばられて育ったろうか。
今、誰か何かをしばっているだろうか。
この先、何かにしばられ、何かをしばるだろうか。
それを避けるには、どうしたらいいだろうか。
自由というのはよりどころのないものです。
ふいに、詩人の言葉を思い出す。
自由詩を組み立てるに際し。
創造は、縛りがあるほうが、一見、最初の形を取りやすい。
外形の縛りがなければ、内なる秩序を建てねばならず、
内なる秩序は、よほど厳しく積み上げた背骨に支えられねば、
そこに肉付けした詩篇もろとも自らを崩壊に追い込んでしまう。
あるいはまた、昨日の昆虫を思い出す。
がんじがらめの外骨格の縛りが、構造と機能の限界を決定する。
その状態で環境に適応するのではなく、
生き方のシステムを変えて進化したければ、
節足動物としてのロジックを捨てなくてはならない。
しばらないってむずかしいですね。
Mちゃんがつぶやく。
そうね。とりあえずしばっちゃえば、
いたずらも脱走もされず、
その一瞬は楽なのに、そうしないで、
その子の内側に何か、一生、芯になるようなものが、
ゆっくり芽生えてくるのを一緒に待つってことだもんね。
体の中に骨格があることを、内骨格という。
魚類から霊長類まで、さまざまな生物がいる。
内骨格の生き物は、傷ついたら血を流し、
身を守る丈夫な鎧を持たないけれど、
いかようにも動き、形をとれる体躯を持つ。
知性を持つほどに脳を大きくすることも、自由にできる。
心が内骨格。
そんなフレーズが頭の中に浮かぶ。
当たり前だけど、
あの子たちの心は、
大きくて、やわらかくて、自由で、
内なる秩序、骨格があるんだ。
しばられずに育った、K女史の猫とわが家の犬。
心を内骨格に育てる、なんて妙な話、
その後はしなかったけど、
そっと温めながら帰った。
今も、私の心の中の骨(があるとして!)に、
しっかりとひっかかっている。