遺伝子の生き残り戦略について話し合う。
パンデミック(感染爆発)秒読みといわれる鳥インフルエンザも、
ウイルスの側にしてみれば、人間の不用意な所為をくぐり、
この世に存在し続けるためにやることをやっているに過ぎない。
場合によっては、というか、多くの場合、
一見、「弱い」とされるもののほうがサバイバルに有利だ。
サバイバルするのは個体ではなく、
その個体が次の世代に運ぶDNAのほうだけど。
たとえば、お米の中で餅になる性質は、
普通のうるち米の遺伝子の一部が壊れて出現する。
そのことからもわかるように、餅は劣性遺伝なので、
ホモとなって発現するチャンスは少なく、
世代を継いでも、人間がその遺伝子をもれなく見つけ、
排除するのは、かえってむずかしい。
いったん命に入り込んだら、
ずっと見えない陰にいて、
たまに顔を出し、すぐひっこんでしまえ。
出る杭は打たれやすいのだ。
生き残るならば、出過ぎぬほうがよい。
またたとえば、美味しい枝豆で知られる「だだちゃ豆」は、
経験豊かなばさまの目で次の年の種となるものが残される。
いろり端で行われる選抜の様子には、
きっとみな目を丸くするだろう。
ばさまは、新聞紙の上にたくさんの成熟した茶豆を広げ、
しわしわの粒、小さくてゆがんだ粒を指ではじき出す。
そちらを捨てるのかと思うと、それこそが翌年の種子だという。
どうやら、だだちゃの美味は、
「弱い」とされる遺伝的多型の中にひそんでいる。
それが生き残るように、ばさまの、ひいばっちゃの、
そのまたばっちゃの優しい指が、何百年も、
とあるパターンの塩基配列を守り続けてきた。
いまどき大量に供給されるクローンだだちゃとは全然違う、
それは人と豆の、幾世にも渡る共舞だ。
茶豆姫さま、お守り候
夢と現のあわいに在りて
隠身の響き聞こし召し
その美久遠なり、あわれなり
弱いな、ダメだなと思うとき、ほんの少しだけ、
それがゆえに運べるものを考えてみる。
ささやかな方舟の中から羽ばたいていく、
もっとも美しいものは何か考える。
うんとおいしいお煎茶を入れて、
だだちゃのずんだ餅など、味わいたい夜なり!