たとえば、ある溶液を定量したいとして、
フラスコのこの位置まで水を足せばいいとわかっているとき、
乱暴者もそうでない者も水をチューブで足していく。
水位が目標の目盛りに近づいて、
微妙な加減が必要になったとき、
乱暴者はそのままの呼吸で水を注いでいく。
水量調節があまり思い通りでなくても、なに、大丈夫、
その道具を取りかえようという発想はない。
始めから、それは面倒だと却下しているのだ。
そこにあるのは、根拠のない全能感。
結果、一瞬にして目盛りを超えた水が注がれる。
もうその溶液は使いものにならない。
全体を無駄にして最初からやり直しだ。
予測できないわけではない。
ここでこうしたほうがいい、という声は、
途中で乱暴者にも聞こえている。
ただそれを、おのれの都合で無視する。
私は乱暴者だ。
何度も何度もそれで失敗し、
頭をぎゅうぎゅう押さえつけられるようにして、
それではダメだと目の前の結果に教えられた。
手は頭に仕えるのではなく、
手の中にある事象に仕えよ。
頭はその手に仕えよ。
手より先に行くなよ。
それって何かに似ている。
お釈迦様にケンカをふっかけ、筋斗雲でひとっ飛び。
世界の果てに落書きをして、意気揚々と帰ってきたら、
落書きはお釈迦様の手の平にあった。
頭には緊箍児、暴れるたびにギュウと締まる。
確かに、人生は、
ずっと誰かの供をして旅をしているのかもしれず。
その方は丸腰なのに、
守るというより導いていただいているのも、
なんだかどこか似ていよう。
明日の旅路もよきものでありますように。
なにかまたひとつ、素適な気づきがありますように。
はなはだサル知恵の修行者も、
そろそろ眠りにつくことにいたしましょう。