2月19日(日)乱暴者

たとえば、ある溶液を定量したいとして、
フラスコのこの位置まで水を足せばいいとわかっているとき、
乱暴者もそうでない者も水をチューブで足していく。

水位が目標の目盛りに近づいて、
微妙な加減が必要になったとき、
乱暴者はそのままの呼吸で水を注いでいく。
水量調節があまり思い通りでなくても、なに、大丈夫、
その道具を取りかえようという発想はない。
始めから、それは面倒だと却下しているのだ。
そこにあるのは、根拠のない全能感。

結果、一瞬にして目盛りを超えた水が注がれる。
もうその溶液は使いものにならない。
全体を無駄にして最初からやり直しだ。

予測できないわけではない。
ここでこうしたほうがいい、という声は、
途中で乱暴者にも聞こえている。
ただそれを、おのれの都合で無視する。

私は乱暴者だ。
何度も何度もそれで失敗し、
頭をぎゅうぎゅう押さえつけられるようにして、
それではダメだと目の前の結果に教えられた。

手は頭に仕えるのではなく、
手の中にある事象に仕えよ。
頭はその手に仕えよ。
手より先に行くなよ。

それって何かに似ている。

お釈迦様にケンカをふっかけ、筋斗雲でひとっ飛び。
世界の果てに落書きをして、意気揚々と帰ってきたら、
落書きはお釈迦様の手の平にあった。
頭には緊箍児、暴れるたびにギュウと締まる。

確かに、人生は、
ずっと誰かの供をして旅をしているのかもしれず。
その方は丸腰なのに、
守るというより導いていただいているのも、
なんだかどこか似ていよう。

明日の旅路もよきものでありますように。
なにかまたひとつ、素適な気づきがありますように。
はなはだサル知恵の修行者も、
そろそろ眠りにつくことにいたしましょう。