2月17日(金)月桃の人

インターフォンが鳴る。
ごく近所の家の御主人が、
何事かならん、玄関先にいらしている。
寒い朝。2月の気象は、
なかなかすぐには春に席を譲らない。

実は家内が亡くなりました。

想像を超えたご訪問理由に絶句する。
まだ彼らは若いのだ。奥様も二十代。
そんなことが、どうして。

ガーデニングにたくさん苗を譲ってもらったから、と、
ポットに植えたかわいいツル植物をいただいたことがある。
芋の一種なのです。でも食べないでくださいね、
毒がありますから。そう言われた。
ツルはヒュンヒュン回転してまわりの環境を探索し、
最後は所在なげに本棚の壁に寄り添った。

クリーピングタイムを植えた、と聞いたこともある。
そうすれば、その場所を踏みつぶしたり、
ゴミや犬のウンチを落とす人がいなくなるから。
ちょうど道ゆく人も眺められる、土の見える場所で、
年々緑は大きくなり、6月になるとあたり一面、
濃厚な花の香りをふりまいた。

最後に話をしたのはいつだったか。
いつもいい匂いがするのですね、と呼びとめられた。
お風呂の換気扇や、リビングのほうから。
それから朝の、寝室の窓を開けたときも。

感覚の鋭い方だなと思った。

ああ、いつも精油を、植物の力を、
エアフレッシュナーに使っているからですよ、と答え、
もしかしてお邪魔になっていますか、とうかがった。

いいえ、いいえ、とてもすてきな香りで。
あれは何の香りなのでしょうか、すっきりした甘い、
清潔な香りをお使いですね。私も使ってみたいなと思って。

それはきっと月桃の香りでしょう。
お気に召したのなら、いつか差し上げます。
高価なので、精油の形ではあまり手に入りませんが、
それを希釈した使いやすいウォータースプレイがあるのです。
私もベッドリネンやお洋服の衛生に愛用しています。
本当に気持ちもシャキッとしますし、気持ちいいですよ。

そうだ。その約束を果たしていなかった。
そのうち、そのうちと思ううち取り紛れ、
記憶の狭間に雑草が生えた。

昨日が今日も、今日が明日も同じように続くと、
どうしていつも脳天気に信じられるのだろう。私は。
走って走って走って。今日やることを今日なさねば、
明日もできると誰が言える。もっと走れ、走れ!

月桃の香りを、小さなご供養に。
優しく強い命の力の風に乗り、
もう春の来ている南の国まで御魂安けく運べと祈る。
生きていることを、土を踏みしめながら、
友と笑いながら、冷たい風の中にヒリヒリ感じながら。